暗く冷たい井戸の底にいるような気分だった。
何度も逃げ出そうともがいた。だけど、ダメだった。
足掻く力もなく傷だらけの私は、これからもずっとここで暮らしていかなくてはならなくて、ただ狭い空に見える星を眺めるばかりなのだ。
ならばいっそ、終わらせてしまいたい。
そう思っていた。
「なんだ貴様、この世の終わりみたいな顔をして」
地の底まで響くような力強い声がした。
振り向くと、どこかで見たことがあるような顔の男が立っている。
どこで見たのかなんて、もうなんにも覚えていないのだけれど。
「……別に、そういう訳では」
終わるのは私だけ。私がいなくても変わらず地球は回るし、明日は来るのだから。
「フゥン、どうやら単刀直入に言った方が良いらしい」
「ま、まだ何か?」
無粋な男だ。一人感傷に浸っているところにズカズカと偉そうに入ってきて。
最期の時くらい、自由にさせてくれ。
「貴様がいま欲しいものを、言ってみろ」
「欲しい、もの……」
今さら欲しいものなんて、考えても仕方ない。
それに考えてしまっては、せっかくの決心も鈍ってしまうのいうものだ。
「ないかな。欲しいものなんか、もうなんにも」
こういうやり取りもどこかで見たことがある。
遠い世界の話だと思って他人事のように眺めていた。
それが今やこのザマである。
私が泣いてすがればこの人は私の望みを叶えてくれるのだろうか。だとしてもだ。
生憎、自分の足で歩いていく元気はとっくに失ってしまったのだ。
「そうか」
男は私の答えを肯定も否定もしなかった。
「俺はこの世界の全てが欲しいがな!」
「はあ?」
誰もそんなことを聞いてはいない。しかも何を言うかと思えば、この男はいっそ清々しいほど欲張りであるらしい。
「それにだ。たった今、絶対に手に入れたいと思うものがもう一つできたぞ」
「そ、それは……私が聞かなくちゃならない感じ?」
相手をするつもりなんてなかった筈なのに、私はまんまと男のペースに乗せられている。
「そうだな。貴様は心して聞かなければならん」
「え、それって……いやちょっと待って。だって私たち、今出会ったばかり……!」
「ほう。思った以上に察しが良いな」
この世界に欲しいものなんかない。私の居場所なんかない。期待なんかしたくない。それなのに。
そんな真っ直ぐな目で見られたら、そんな力強く腕を掴まれてしまったら、嫌でも分かってしまう。
「貴様はもう分かっているようだが……敢えて言うぜ。オイ、目を閉じるな、こっちを見ていろ」
私の世界が。色も音も温度もなかった私の世界が。
たった数分前に出会った男一人にひっくり返されようとしている。
「俺は貴様が欲しくなった。だからもう、勝手に終わらせることは俺が許さん」
こんなの、何もかも持っている人間の自分勝手な言葉だ。
なのに彼の目が、声が、体温が、敢えてそう言っているのだと訴えかけてくる。そんな気すらしてしまう。
「さっき欲しいものなどないと言ったな?それは違うぞ。貴様はまだ気付いていないだけだ」
ならば、俺が教えてやるまでだ。
そう言うと、とうとう彼は井戸の底で蹲っている私に向かって手を伸ばした。
「今、貴様に必要なのは哀れみや同情でも施しでもない。貴様をそこから引っ張りあげる手だ。それは他でもない、俺の手だ」
私を見据えているのは、邪念ひとつない、ただひたすらに真っ直ぐな瞳だった。
「違うか?」
「……違うかどうかは、これから確かめてみたら?」
もういいや。どうなっても。
良いようにされるかは分からないが、悪いようにもならないだろう。
この男は、とんでもなく強欲で、とんでもなくお人好しのようだから。
差し出された手を握り返すと、明朗快活な声で彼は笑うのだった。
「はっはー!そう来なくてはな!」
2020.5.17
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